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「白石」の誕生と「南郷」のこと(虹27号より)

カテゴリ:職員ブログ

(文:理事長 河原克実)

敗戦武士集団、蝦夷へ渡る

徳川幕府による政権は一八〇〇年代後半入ると支配力が衰えて、将軍徳川慶喜は一八六七年天皇に政権を還すという「大政奉還」を行い、幕府は廃止、新政府が誕生しました。

東北地方の諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで朝廷を中心とする「尊皇攘夷」に対抗しましたが一八六八年(明治元年)戊辰戦争を戦い敗北しました。その結果仙台藩は領地を三分の一に減らされ仙台藩の白石領は領地、屋敷を南部藩に明け渡すことになり白石城を預かっていた片倉小十郎邦憲は千四〇〇人余りの家臣を抱えながら土地も収入の道も失い伊達領内(仙台藩)にとどまることも許されなくなりました。

北海道移住を決意した片倉と藩士一〇〇〇人余に翌明治四年開拓使より移住先として指定されていた第一陣が出発、明治五年までに八十五戸二二七人が移住し、その後は開拓使の直轄事業として受け容れることになり、片倉家から約一五〇戸、六〇〇人余が応募しました。

この開拓使直轄事業に参加する武士であった人たちに開拓使は「開拓使貫属」(士族の身分を持ち北辺を守りながら開拓する人)という称号を与えられたため、武士の身分を失った者たちは名誉を保たれ励みになったと言われています。若干二十二歳の家老であった佐藤孝郷が貫属取締を命ぜられ、移住の諸準備に力を尽くし、明治四年九月に威臨丸・庚午丸に一五〇戸六〇〇人余が分譲し松島湾を出発、途中木古内沖で威臨丸の座礁もあり、小樽港より陸路苦難の末石狩に到着したとのことです。

山鼻を避けて望月寒川流域へ

入植地は当初山鼻地域(中央区)を指定されましたが地味が悪いと判断し、樹木のよく繁る肥沃の地望月寒川流域に決め、石狩での越冬をすすめる開拓使を押し切って入植しました。
「彼らは寒さに耐えながら現在の国道12号線沿いの白石公園付近から白石神社までの間に短期間で住まいを完成させました。そしてその熱心な働きぶりに感じた開拓使の岩村判官が、彼らのふるさとの名をとって白石村と命名しました」(ホームページ「白石区の紹介」)とあります。また『白石歴しるべ』によるとこの道路は「開拓使が先に幅十間(18㍍)延長二〇〇間(3.6㌔)の道路を切り開いており、この両側に一戸あたり間口四十間(72㍍)奥行三〇〇間の土地を一〇〇戸分割り当てました。

道路といっても切株が残り湿地もありで、現代の感覚では道路とは言えないものだったろう」と書かれています。最初の屯田兵が琴似に入植したのは、明治八年、その四年前の入植でした。

南郷という地名と南郷通

地下鉄東西線白石駅の真上を環状通が南北に走っています。東側が南郷、西側が東札幌と地名がついています。余りはっきりしませんが南郷通について前出ホームページには「この地域は、明治十五年に月寒地区から移住した岩井澤七兵衛らにより開かれました。その後の開発は、福井県、富山県、愛媛県、岩手県など多くの県から入植した混成団により進められました。地名の由来は明らかではありませんが、本通より南部を『南郷』としたようです」とあります。「南郷通」は大谷地で12号線(白石本通の続き)と接し新札幌へと大きく曲がります。

南郷通は続いても「南郷」の地名から離れるのは厚別川が境です。厚別区の『大谷地』という名の地域に入りますが、よくぞ『大谷地』と言ったものだと感じ入ります。

私の南郷通

もう六十年以上も前の若い頃、歩いて歩いて何故か大谷地に至ったことがありました。大谷地=大野地だと、強い印象を受けました。

下って四十余年前、東札幌2条4丁目の南郷通に面した場所に日本生協連が三階建てのビルを建て北海道支所となり私が勤務していた北海道生協連がその一室に移ってきました。南郷通は砂利道で少し東へ歩いて行くと道路の中央部が灌漑用水路でチョロチョロと水が流れ葦が繁っていました。窓を開けていると砂埃が容赦なく入ってきました。この南郷通が舗装され、見違えるようになったのは地下鉄が通るようになった時です。アサヒビール園が出来て、少し歩きますが、勤務帰りに時折立ち寄ったりしました。

南郷六丁目に高齢者のための住居を新しい生協が建設するなど夢にも思いませんでしたが何か因縁めいたものを感じます。